個人的な話です。
戸田市の方を中心に集まった「しゃんしゃん歩こう会」というサークルに参加し、月に一度、首都圏の主に史跡を巡る旅に出かけています。
その会で別途始まったカラオケで、ある方が「愛の讃歌」を歌われました。シャンソン歌手のレジェンド、エディット・ピアフの名曲です。
この曲を聴くと、私の脳裏にはいつもある光景が浮かんできます。
それは私が19歳の時の7月1日。母の誕生日の光景。
母は末期癌で、本人は知らなかったけど、家族は母の余命宣言を受けていました。手術した5月31日の日に、あと3ヶ月と言われました。手術後はそのまま病院に入院していましたが、できるだけ家族と一緒に過ごさせようという病院の方針で、退院し、家に戻ってきた時のことでした。
お母さんの誕生日。奇跡が起こるのを家族は願っているけれど、おそらくそれが最後の誕生日になることもわかった中で、お誕生日祝いをしました。
その時に、突然、母が父に向けて歌いたいと言いました。それはこれまでになかったことでした。
その時に母が歌ったのが「愛の讃歌」だったのです。
私の母はシャンソンを聴くのが好きで、父もそうでした。子供の頃に、父は日曜日になるといつもシャンソンのレコードをかけていました。
エディット・ピアフの愛の讃歌。
母が歌ったのは、越路吹雪さんが歌われていた日本語歌詞の愛の讃歌でした。
あなたの燃える手で あたしを抱きしめて
ただふたりだけで 生きていたいの
ただ命のかぎり あたしは愛したい
命のかぎりに あなたを愛するの
頬と頬を寄せて 燃える口づけ
交わす喜び
あなたと二人で 暮らせるものなら
なんにもいらない
なんにもいらない
あなたと二人で 生きていくのよ
私の願いは ただそれだけよ
何にもいらない
私たち家族にとって、最後となった母の誕生日。その時に母が何を思って突然「愛の讃歌」を歌ったのか。
私は、今でも「愛の讃歌」を聴くと、私たち家族にとって家族そろっての誕生日祝いとしては最後になったあの夜の光景が蘇ってきます。
母が歌に込めた思い、それを聴く父の思い、家族への愛。
母が余命宣告を受けた中での看病生活と別れ、それがその後の私の人生の原点となりました。その経験をきっかけとなって社会心理学を学び、大学・大学院を経て就職時に思ったのは「人が幸せになる環境づくりに貢献したい」ということ。それは公職についた今も変わりはありません。
しゃんしゃん歩こう会のカラオケで、「愛の讃歌」を聴き、あの夜の光景がまた蘇りました。
長文をお読みくださり、ありがとうございました。
◆越路吹雪「愛の讃歌」
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