今日1月17日は1995年に阪神淡路大震災があった日です。

以前このブログでも書いたことがあるのですが、当時、私は大前研一さんの事務所にいて、朝会議に出るべく着いたところ、神戸での地震を知りました。そして事務所のテレビをつけたところ、そこに映っていたのは燃えている三宮の街でした。

私はちょうど一週間前までそこにいました。祖母が神戸市東灘区に住んでいたのです。

すぐに電話しましたが、当然のことながら繋がりません。

当時の実家は大阪府枚方市でしたが、そこにも電話が繋がりにくく、やっと繋がったと思ったら、弟が祖母の救出に神戸に向かったとの話でした。

私はいてもたってもいられなかったのですが、当時、大前さんのところでは全国の会員組織の担当窓口、パソコン通信の責任者をやっていて、関西の会員の方々と連絡を取り合う必要があり、離れることができませんでした。

通常なら大阪府枚方市から祖母が住む神戸市東灘区住吉台までは車で3時間もあれば着くのですが、後から弟に聞くと、塀は倒れ、地割れがし、道はあちらこちら寸断されていたそうで、結局祖母のもとにたどり着くまで8時間かかりました。祖母が住む高層住宅は屋上にある給水タンクが破裂し、地域は全て停電で、祖母の部屋も玄関がゆがんで開かなくなっていました。

通路に面した窓の格子を外し、窓を打ち破って室内に入ったところ、祖母の上にはタンスが倒れ、あたり一面にガラスの破片が散乱していました。

しかし、布団にくるまっていたのと、タンスが倒れる時にまず引き出しが出て、それがつっかい棒のような形になって、祖母は完全に下敷きになっておらず、助かりました。

大人一人では運べない重さのブラウン管テレビはコードがピンと張るくらいふっとんでいました。部屋はむちゃくちゃでよくぞ生きていたという感じでした。

とはいえ、後からわかったのですが、やはり祖母は頭を打って脳内出血があったらしく、それが原因でその後に痴呆がはじまってしまいました。

私は東京から主にパソコン通信を使って、関西の方々と連絡を取り合い、地域の被災状況や地域で必要とされている物資や開放されているお風呂の場所、支援拠点情報などを共有する業務に従事しておりました。

被災地に入ったのは、それが落ち着いてしばらくたってからでしたが、真っ暗な神戸の街の様子、一階部分がつぶれて傾いているマンションが建ち並んでいる様子を今でも思い出します。また、何人かの友人が家屋の下敷きになり亡くなっていました。

私が学生の頃に親しんだ神戸の姿、大震災が起こる一週間前まで目にしていた街の姿は、そこにはありませんでした。六甲アイランドのホテルのレストランで祖母と食事をしていたときに、その翌週に神戸の街を大地震が襲うとは夢にも思いませんでした。


ですから、私は災害については楽観視していません。もちろん東日本大震災があったこともありますが、この戸田市で自主防災組織に入り、訓練する時も必ず震災が来ると思って取り組んでいます。来ないに越したことはありませんし、来てほしくもありません。しかし、真剣に訓練しておかないといざというときに命を救えません。訓練しても難しいかもしれませんが、やるだけのことはやりたいと思います。

今日はテレビでも阪神淡路大震災の特番をしていました。

亡くなられた方のご冥福を祈るとともに、あの経験を生かしてこそ、犠牲になった方々に報いることができると思います。

合掌。