昨日に引き続き、埼玉新聞に、先月に天皇陛下の心臓冠動脈バイパス手術を執刀されたオフポンプ方式のトップドクター・天野篤順天堂大学医学部心臓血管外科の天野篤教授のインタビュー記事(後編)が掲載されています。
天野教授は、毎週水曜・金曜の2日間、戸田中央総合病院心臓血管外科で執刀されているとのこと。
戸田市に住む私たちにとっては、心強いニュースです。

(埼玉新聞 2012年3月29日)
天皇陛下の心臓冠動脈バイパス手術で、人工心肺装置を使わないオフポンプ方式で執刀した順天堂大学医学部心臓血管外科の天野篤教授(56)は「天皇陛下は最良の患者さん」と語り、病室で見たご一家の様子を「ごく普通の温かい家族愛を見せていただいた」と語った。
■ 少し雲の上
マスコミでいろいろ言われることについて、手術するまでは、耳元で蚊が飛んでいるようで、やかましいなと感じていた。しかし、一番つらい思いをしているのは陛下。皇后さまとお話ししたり、両陛下と接する中で、舞い上がったというのではなく、そんなの関係ないという、少し雲の上にいる境地に変わった。
私は純粋に与えられた任務を遂行するという気持ち。患者である陛下のためであり、なおかつ、早く元気になってほしいと期待している国民のためにやっているという感覚に変わった。
■ 「ありがとう」
だから、非常にいい経験をさせてもらった。国民の一人として、陛下の治療に直接当たらせていただいたことに、大変感謝しているということを、退院の時も含めて3回ぐらい申し上げた。陛下はにこやかに「ありがとう」とおっしゃられた。
早く良くするために気を抜かない。医療チームと患者という関係では良い緊張関係ができていた。医師と患者の関係では理想的な関係だった。医師団が良いと決めたことには、手術のようにつらいことも積極的に受け止められた。
■ 科学者と文学者
そういう意味では、陛下は久しぶりに優良な患者さんだった。情熱を持ってわれわれが訴えることに耳を傾け、納得するまでその話題を変えようとされない。
陛下は科学者だし、皇后さまは文学者。お二人とも聡明で、だから言葉にごまかしはきかない。見抜かれるというか、えぐってこられる。皇后さまは「先ほどはこうおっしゃったでしょ」とおっしゃる。
頭の中で文章を整理しながら、失礼のないように整える作業。30分話しても2時間分ぐらいの疲労だった。
■ 「前よりテニスを」
私と東大循環器内科の永井良三教授は、手術して元気になったら、手術前よりも、もっとスポーツをやって、陛下が元気であるというところを見せてもらわなくては困る、というぐらいの気迫で、今回の治療に当たった。
退院のとき両陛下に「テニスはもっと、前よりは激しくできます」と申し上げた。お二人はテニスで結ばれたという思いがあったので、そう申し上げた。
皇后さまが「それはようございましたね」と言われ、陛下は「そうだね、ありがとう」と言われた。にこやかな話しぶりだった。
■ 「気持ちいいね」
入院中の病室で、皇后さまが陛下の左側に立ち、左手をさすってさし上げた時、陛下が「そこ、気持ちいいね」と言われた。すると皇后さまは「じゃあ、サーヤはあちら側を」と言われ、(長女の)黒田清子さんが右手に回った。ところが陛下の右腕に点滴の針が入っていて、さすってあげられることができなかった。
その光景をみて、父母と娘のごく普通の愛情風景を見た思いだった。当たり前の普通の家族愛があると感じた。
浦和高校の入学式で、当時の小関一郎校長が、ヘルマン・ヘッセの「狭き門」の言葉を引用し「浦校生はより狭き門を目指しなさい。より高いハードルを目指しなさい。それが君たちの使命です」と話した。「今の自分があるのはこの訓示のおかげ」という。
3年間の浪人生活では国語や社会、近現代を勉強した。太平洋戦争がなぜ起きたのか「ディープに勉強した。そういう勉強が今の仕事で役に立っている」と言う。蓮田市本町で燃料商の専務だった父、甲子男さんは20年前に心臓病で亡くなった。「今なら自分で助けられたはず」と悔しい思いが残る。
天野教授は毎週、水、金曜日の2日間、戸田市の戸田中央総合病院心臓血管外科で執刀している。
天野教授は、毎週水曜・金曜の2日間、戸田中央総合病院心臓血管外科で執刀されているとのこと。
戸田市に住む私たちにとっては、心強いニュースです。

(埼玉新聞 2012年3月29日)
天野篤順大医学部教授に聞く 下
天皇陛下の心臓冠動脈バイパス手術で、人工心肺装置を使わないオフポンプ方式で執刀した順天堂大学医学部心臓血管外科の天野篤教授(56)は「天皇陛下は最良の患者さん」と語り、病室で見たご一家の様子を「ごく普通の温かい家族愛を見せていただいた」と語った。
(岸鉄夫)
■ 少し雲の上
マスコミでいろいろ言われることについて、手術するまでは、耳元で蚊が飛んでいるようで、やかましいなと感じていた。しかし、一番つらい思いをしているのは陛下。皇后さまとお話ししたり、両陛下と接する中で、舞い上がったというのではなく、そんなの関係ないという、少し雲の上にいる境地に変わった。
私は純粋に与えられた任務を遂行するという気持ち。患者である陛下のためであり、なおかつ、早く元気になってほしいと期待している国民のためにやっているという感覚に変わった。
■ 「ありがとう」
だから、非常にいい経験をさせてもらった。国民の一人として、陛下の治療に直接当たらせていただいたことに、大変感謝しているということを、退院の時も含めて3回ぐらい申し上げた。陛下はにこやかに「ありがとう」とおっしゃられた。
早く良くするために気を抜かない。医療チームと患者という関係では良い緊張関係ができていた。医師と患者の関係では理想的な関係だった。医師団が良いと決めたことには、手術のようにつらいことも積極的に受け止められた。
■ 科学者と文学者
そういう意味では、陛下は久しぶりに優良な患者さんだった。情熱を持ってわれわれが訴えることに耳を傾け、納得するまでその話題を変えようとされない。
陛下は科学者だし、皇后さまは文学者。お二人とも聡明で、だから言葉にごまかしはきかない。見抜かれるというか、えぐってこられる。皇后さまは「先ほどはこうおっしゃったでしょ」とおっしゃる。
頭の中で文章を整理しながら、失礼のないように整える作業。30分話しても2時間分ぐらいの疲労だった。
■ 「前よりテニスを」
私と東大循環器内科の永井良三教授は、手術して元気になったら、手術前よりも、もっとスポーツをやって、陛下が元気であるというところを見せてもらわなくては困る、というぐらいの気迫で、今回の治療に当たった。
退院のとき両陛下に「テニスはもっと、前よりは激しくできます」と申し上げた。お二人はテニスで結ばれたという思いがあったので、そう申し上げた。
皇后さまが「それはようございましたね」と言われ、陛下は「そうだね、ありがとう」と言われた。にこやかな話しぶりだった。
■ 「気持ちいいね」
入院中の病室で、皇后さまが陛下の左側に立ち、左手をさすってさし上げた時、陛下が「そこ、気持ちいいね」と言われた。すると皇后さまは「じゃあ、サーヤはあちら側を」と言われ、(長女の)黒田清子さんが右手に回った。ところが陛下の右腕に点滴の針が入っていて、さすってあげられることができなかった。
その光景をみて、父母と娘のごく普通の愛情風景を見た思いだった。当たり前の普通の家族愛があると感じた。
今の自分 訓示のおかげ
「狭き門」の言葉、今も
「狭き門」の言葉、今も
浦和高校の入学式で、当時の小関一郎校長が、ヘルマン・ヘッセの「狭き門」の言葉を引用し「浦校生はより狭き門を目指しなさい。より高いハードルを目指しなさい。それが君たちの使命です」と話した。「今の自分があるのはこの訓示のおかげ」という。
3年間の浪人生活では国語や社会、近現代を勉強した。太平洋戦争がなぜ起きたのか「ディープに勉強した。そういう勉強が今の仕事で役に立っている」と言う。蓮田市本町で燃料商の専務だった父、甲子男さんは20年前に心臓病で亡くなった。「今なら自分で助けられたはず」と悔しい思いが残る。
天野教授は毎週、水、金曜日の2日間、戸田市の戸田中央総合病院心臓血管外科で執刀している。
コメント