合従連衡(がっしょうれんこう)という言葉は学生の頃に習った四字熟語で、その意味は「時流を読み、その時々の利害に応じて、互いに協力したり離反したりすること。また、巧みな計算や外交上の駆け引きのこと」とされていますが、最近の尖閣諸島問題を巡る国際間の動きをみるにつけても、この言葉が思い出されてなりません。
ところで、この「合従連衡」という言葉、もともとは漢の時代に編纂された中国の古典「史記(司馬遷)」で記述されている故事がもとになっているのです。
その昔・・・昔と言っても紀元前300年前くらいですから、今から2300年ちょっと前、中国では7つの国が争う「戦国時代」でした。そのうち最も強大なのが「秦」の国。後に全国を統一した始皇帝が現れる「秦」です。他の国は「楚」「斉」「燕」「韓」「魏」「趙」で、「秦」に対抗するために他の6国は同盟を結んでいました。力の弱い6つの国が共同して強国「秦」にあたる、これが「合従」策です。しばらくはこれが機能して、秦はなかなか他国に侵攻できませんでした。均衡状態がしばらく続きます。
その後、その状況は秦の策によって破られます。その策とは「遠い国と同盟して近くの国を攻める」という秦の策、すなわち「連衡」策です。秦は隣接していない遠い国と単独同盟を結ぶことで、6国の力が結集するのを破り、隣国を攻め落としていったのでした。
もっとも、史記によると、この裏には政治家の思惑があったそうです。当初、蘇秦という人物が「秦」の宰相になろうと仕官を試みたのですが、秦王から拒絶されてしまい、願い適わず帰国。その後「合従」策によって秦を除く6国の宰相を兼ねるようになります。その友人に張儀という人物がいて田舎にくすぶっていましたが、蘇秦を頼ったところ、蘇秦から大いに侮辱されて発憤、その後、秦に仕官して宰相に取り立てられます。張儀はなんとか蘇秦を見返したいと思っていたところ、実は張儀が秦に仕官できたのも蘇秦の支援のおかげだったことがわかります。蘇秦が張儀を侮辱したのも、張儀が発憤させるためだったわけでした。
蘇秦が言うには「自分は6国の宰相を兼ねる地位にいるけれど、その地位にいることができるのは強大な秦があるからだ。秦の力が弱まればいつ地位を追われるかわからない。だから張儀、きみが秦の宰相となって強い秦の力を維持してほしい。そして、お互い勝ちすぎないようにしよう」ということでした。
そうやって、しばらくは均衡状態が続いたのですが、その後、蘇秦が暗殺され、合従策が崩れたのを機会に、連衡策の秦が力を増し、結果、秦の統一となったのでした。ちなみに、秦が力を増すとともに張儀も必要とされなくなり、身の危険を感じた張儀は他国に亡命することになりました。
この話には後に史実関係に矛盾がある(蘇秦と張儀はそれぞれ活動した時期が異なる等)とされ、後の世に生まれた司馬遷が資料整理の過程で誤ったのだろうと判断されているようですが、史記に書かれている話は上記のとおりです。
中国という国は紀元前からこんなやりとりをしてきている国です。もちろん国際情勢は全然違いますが、人間の発想はそんなに変わらないものです。
中国にとっては連衡策が望ましく、日本を含め周辺諸国には合従策が必要です。しかし、合従策が力を発揮するためには深い見識と先を見通せる力、そしてリーダーシップを発揮できる人物がその地位におらねばなりません。
時代は違いますが、今の日本と中国をめぐる国際情勢をみていると、私は学生時代に習ったこの「合従連衡」の話が被さってなりません。
ところで、この「合従連衡」という言葉、もともとは漢の時代に編纂された中国の古典「史記(司馬遷)」で記述されている故事がもとになっているのです。
その昔・・・昔と言っても紀元前300年前くらいですから、今から2300年ちょっと前、中国では7つの国が争う「戦国時代」でした。そのうち最も強大なのが「秦」の国。後に全国を統一した始皇帝が現れる「秦」です。他の国は「楚」「斉」「燕」「韓」「魏」「趙」で、「秦」に対抗するために他の6国は同盟を結んでいました。力の弱い6つの国が共同して強国「秦」にあたる、これが「合従」策です。しばらくはこれが機能して、秦はなかなか他国に侵攻できませんでした。均衡状態がしばらく続きます。
その後、その状況は秦の策によって破られます。その策とは「遠い国と同盟して近くの国を攻める」という秦の策、すなわち「連衡」策です。秦は隣接していない遠い国と単独同盟を結ぶことで、6国の力が結集するのを破り、隣国を攻め落としていったのでした。
もっとも、史記によると、この裏には政治家の思惑があったそうです。当初、蘇秦という人物が「秦」の宰相になろうと仕官を試みたのですが、秦王から拒絶されてしまい、願い適わず帰国。その後「合従」策によって秦を除く6国の宰相を兼ねるようになります。その友人に張儀という人物がいて田舎にくすぶっていましたが、蘇秦を頼ったところ、蘇秦から大いに侮辱されて発憤、その後、秦に仕官して宰相に取り立てられます。張儀はなんとか蘇秦を見返したいと思っていたところ、実は張儀が秦に仕官できたのも蘇秦の支援のおかげだったことがわかります。蘇秦が張儀を侮辱したのも、張儀が発憤させるためだったわけでした。
蘇秦が言うには「自分は6国の宰相を兼ねる地位にいるけれど、その地位にいることができるのは強大な秦があるからだ。秦の力が弱まればいつ地位を追われるかわからない。だから張儀、きみが秦の宰相となって強い秦の力を維持してほしい。そして、お互い勝ちすぎないようにしよう」ということでした。
そうやって、しばらくは均衡状態が続いたのですが、その後、蘇秦が暗殺され、合従策が崩れたのを機会に、連衡策の秦が力を増し、結果、秦の統一となったのでした。ちなみに、秦が力を増すとともに張儀も必要とされなくなり、身の危険を感じた張儀は他国に亡命することになりました。
この話には後に史実関係に矛盾がある(蘇秦と張儀はそれぞれ活動した時期が異なる等)とされ、後の世に生まれた司馬遷が資料整理の過程で誤ったのだろうと判断されているようですが、史記に書かれている話は上記のとおりです。
中国という国は紀元前からこんなやりとりをしてきている国です。もちろん国際情勢は全然違いますが、人間の発想はそんなに変わらないものです。
中国にとっては連衡策が望ましく、日本を含め周辺諸国には合従策が必要です。しかし、合従策が力を発揮するためには深い見識と先を見通せる力、そしてリーダーシップを発揮できる人物がその地位におらねばなりません。
時代は違いますが、今の日本と中国をめぐる国際情勢をみていると、私は学生時代に習ったこの「合従連衡」の話が被さってなりません。
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