以下は、私が参加しているある市民活動団体の会報誌への寄稿文の準備稿である。
まだまだ文章がこなれていないが、林冬彦という人間はこんなことも考えているのかと、ご笑覧いただければ幸いである。
まだまだ文章がこなれていないが、林冬彦という人間はこんなことも考えているのかと、ご笑覧いただければ幸いである。
言語・論理を重視する社会から感じる心を大切にする社会へ
最近、子どもが親を殺す事件が全国で相次いでいます。マスコミには一つの事件が報道されることで他の地域で連鎖反応が起こったと解説するところもありましたが、連鎖するということは、子どもによる親殺しが起こりうる土壌がすでに各地に形成されていたということです。いったい、なんでこうなってしまったのでしょうか。
先日、ある新聞の教育欄にこんな内容のコラムが載っていました。
「学校で子どもが先生に『先生、どうして人を殺してはいけないのですか?』と質問しました。すると先生は『法律で決まっているから』『お父さん、お母さんが悲しむから』などいくつかの理由を挙げたそうです。しかし、この先生の対応は根本的に間違っています。もし子どもから『なぜ人を殺してはいけないのか?』と尋ねられた場合、『駄目なものは駄目!』と教えるべきです。この世の中には『駄目なものは駄目!』ということがあることをわからせないことが、今の教育のひずみを生み出しているように思えます」
たしかに、「法律で決まっている」「両親が悲しむ」などといったことは「人を殺してはいけない」理由に含まれますが、それが全てではありません。また、仮にいくつ理由を挙げたところで、人を殺してはいけないということを子どもたちに根本的にわからせることにはならないような気がします。世の中には「駄目なものは駄目!」ということがあり、「人を殺してはいけない」というのはそれにあたるのだと、説明する先生の姿を通して子どもたちが感じ取って、初めてそれがわかるようになるのではと思います。大切なのは頭(言葉)で「理解する」ことではなく、腹の底からその通りだと「納得する」ことでありましょう。
少し前に「人は見た目が9割」という本(竹内一郎著・新潮新書)がベストセラーになりました。この本では人のコミュニケーション行動に焦点をあてていますが、人が会話をする場合、言語による意思伝達の割合は1割程度で、あとの9割は身振り手振りや声の抑揚、顔の表情や醸し出す雰囲気などといった言語によらない部分から伝わるのだそうです。1割は言葉から理解し、残り9割は伝える姿から感じ取るのです。したがって、人に物事を伝える場合、言葉だけでなく、伝える側の姿勢や醸し出す雰囲気といった要素がとても大切なのです。
私たちは、これまでに言葉を重視し、「論理的であること」「説明できること」が重要であるかのような教育を受けてきました。受験では特にそうで、いかに知っているか、いかに論理的に考えることができるか、という採点側が言葉で理解し評価できる部分が重視されているように思えます。これでは、感じる心や感じさせる姿勢が育ちにくいといえましょう。
最近の一連の親殺し事件を考えると、もし、子どもが親に愛されていると親の姿から感じ取っていたならば、親が子ども姿から子どもの気持ちを感じ取っていたならば、これらの凶行はなかったような気がします。
ただし、ことは教育現場だけに限りません。政治や経済を初めあらゆる分野にそれは見られます。かつて小泉首相の「人生いろいろ」発言の姿勢や、現在渦中にある日銀福井総裁の辞職せずの姿勢に関して、釈明された説明に理屈では理解しても、納得できないという想いを持った方は少なくなかったはず。これら「おかしい」「納得できない」という感情が国民の間に蓄積されていくことは決して良い影響を社会に与えないと思います。
私たちは今こそ、言語や論理による「理解」重視の考え方から、感じる心を育て、自らの姿勢を通して相手の心に伝える「納得」重視の社会をつくっていく必要があるのではないでしょうか。特に、指導的な立場にある人には、自らの感じる心と感じさせる姿勢が周囲に大きな及ぼす責任を感じてもらいたいものです。事件が噴出する、今が変わる時なのです。
最近、子どもが親を殺す事件が全国で相次いでいます。マスコミには一つの事件が報道されることで他の地域で連鎖反応が起こったと解説するところもありましたが、連鎖するということは、子どもによる親殺しが起こりうる土壌がすでに各地に形成されていたということです。いったい、なんでこうなってしまったのでしょうか。
先日、ある新聞の教育欄にこんな内容のコラムが載っていました。
「学校で子どもが先生に『先生、どうして人を殺してはいけないのですか?』と質問しました。すると先生は『法律で決まっているから』『お父さん、お母さんが悲しむから』などいくつかの理由を挙げたそうです。しかし、この先生の対応は根本的に間違っています。もし子どもから『なぜ人を殺してはいけないのか?』と尋ねられた場合、『駄目なものは駄目!』と教えるべきです。この世の中には『駄目なものは駄目!』ということがあることをわからせないことが、今の教育のひずみを生み出しているように思えます」
たしかに、「法律で決まっている」「両親が悲しむ」などといったことは「人を殺してはいけない」理由に含まれますが、それが全てではありません。また、仮にいくつ理由を挙げたところで、人を殺してはいけないということを子どもたちに根本的にわからせることにはならないような気がします。世の中には「駄目なものは駄目!」ということがあり、「人を殺してはいけない」というのはそれにあたるのだと、説明する先生の姿を通して子どもたちが感じ取って、初めてそれがわかるようになるのではと思います。大切なのは頭(言葉)で「理解する」ことではなく、腹の底からその通りだと「納得する」ことでありましょう。
少し前に「人は見た目が9割」という本(竹内一郎著・新潮新書)がベストセラーになりました。この本では人のコミュニケーション行動に焦点をあてていますが、人が会話をする場合、言語による意思伝達の割合は1割程度で、あとの9割は身振り手振りや声の抑揚、顔の表情や醸し出す雰囲気などといった言語によらない部分から伝わるのだそうです。1割は言葉から理解し、残り9割は伝える姿から感じ取るのです。したがって、人に物事を伝える場合、言葉だけでなく、伝える側の姿勢や醸し出す雰囲気といった要素がとても大切なのです。
私たちは、これまでに言葉を重視し、「論理的であること」「説明できること」が重要であるかのような教育を受けてきました。受験では特にそうで、いかに知っているか、いかに論理的に考えることができるか、という採点側が言葉で理解し評価できる部分が重視されているように思えます。これでは、感じる心や感じさせる姿勢が育ちにくいといえましょう。
最近の一連の親殺し事件を考えると、もし、子どもが親に愛されていると親の姿から感じ取っていたならば、親が子ども姿から子どもの気持ちを感じ取っていたならば、これらの凶行はなかったような気がします。
ただし、ことは教育現場だけに限りません。政治や経済を初めあらゆる分野にそれは見られます。かつて小泉首相の「人生いろいろ」発言の姿勢や、現在渦中にある日銀福井総裁の辞職せずの姿勢に関して、釈明された説明に理屈では理解しても、納得できないという想いを持った方は少なくなかったはず。これら「おかしい」「納得できない」という感情が国民の間に蓄積されていくことは決して良い影響を社会に与えないと思います。
私たちは今こそ、言語や論理による「理解」重視の考え方から、感じる心を育て、自らの姿勢を通して相手の心に伝える「納得」重視の社会をつくっていく必要があるのではないでしょうか。特に、指導的な立場にある人には、自らの感じる心と感じさせる姿勢が周囲に大きな及ぼす責任を感じてもらいたいものです。事件が噴出する、今が変わる時なのです。
コメント
コメント一覧
私も子供を持つ親として最近の事件は信じがたい物があります。
心を大事にする事って大事ですね。納得しました。
私は『駄目なものは駄目!』という子育てをしてきただろうか?
自問自答しているおけい。
子を持つ親としては特に、考えさせられる記事です。
お仕事の邪魔をしてしまったかしら。。。?
ついに買い物かごつきHPが完成しました!!ので一番にお知らせします。いろいろ不備もありますが。。。
何か気づいた点がありましたら、ご指摘下さいませ。
先日はヘソなメールを送ってしまいゴメンナサイデス…
親や大人が、手本となる生き方を見せることが、何よりも一番影響があるということですね。言葉でいくらいっても聞かないのは、言葉だけでは納得できないことがあるからでしょうね。
その意味では、サッカーの中田が見せてくれている生き方というのは力強く言葉が心に響くように感じました(引退声明文)
また、語らなければ伝わらないことが多くありますよね。まず自分の心がどう感じているかを知り、伝えていけば相手にも伝わる、相手も自ら正直な自己表現ができるようになると思う。お互いが素直に関れる関係を私は作っていきたいなと思います(^^
何故文句を言わない?その親に遠慮しているから?
こういった大人の変な「遠慮」が子供をダメにしているかもしれませんね…