今日、11月22日は産みの母親の命日。私19歳、弟17歳。母は47歳でこの世を去りました。

3月にあれ?何かお腹の横にあるよと触ってみると卵巣のあるところが小さいピンポン球でも入っているかのように膨らんでいました。何だろうね、といっているまに検査。がん細胞が子宮から見つかったのだけど、そのガンは子宮で発生したものでなく、どうやら胃からではないかと手術を行いました。

母は自分がガンであることを全く知らず、行ってくるねーと手術室に消えました、4時間経てば手術は成功と聞いていたのだけど、実際には2時間くらいで手術終了のベルが鳴りました。あかんかったんや。絶望的な気持ちに襲われました。そして、執刀された先生ばがっくりと肩を落とし、胃がんから始まる末期ガンでした。胃を取り、子宮や卵巣を取り、大腸の一部をとり、人工肛門処置をした体になりました。横隔膜にはとりきれなかったがん細胞が残っていました。その時、手術で体から取り上げた卵巣を見ましたが、ピンク色でガン化して何十倍にも膨れ上がっていました。

余命3ヶ月ですと家族に告げられたのはそのすぐ後。母はICUで助かったんやねと言っている。お母さんが死んでしまう!どうしようもない絶望感に襲われました。

当時浪人生だった私は、それから自宅から病室、病室から予備校、そして病室に帰り、夜は自宅にという生活に。遅くきた反抗期の真っ最中だったけど、母の死を前にそんなものはどこぞへ飛んでいってしまいました。奇跡がおこらないかな、西洋医学でだめなのなら東洋医学はどうだろうと気功を学び始めたのはその時期からでした。

病院から一時退院しては自宅で過ごし、また調子が悪くなっては別の病院に入院し、また自宅にという生活。少しでも家族とともに生活できるようにという配慮でした。

最期は市民病院の病室で、僕が買ってきたおでんを母に食べさせていた時に、当然やってきました。何か苦しみ始めて嘔吐したのです。出てきたものは鮮血でした。胃で残っていた部分が破けたのです。私、血を吐いたんやね。母が絶望的な表情の中で呟いた言葉でした。

応急処置と輸血が始まりましたが、そこで母は自分の余命が尽きることを実感したのでしょう。私と弟が社会人になるまで頼むと父と実の姉に私たち兄弟を託しました。私にはお兄ちゃんとしてどんなことがあっても3歳下の弟を守ってやってねという頼みごとでした。その後一週間を待たずして母の命は尽きました。

枚方市民病院の病室の窓から遠くに夕焼けの中に光りながら行き交う京阪電車の姿が見えました。あの時、その窓から見える電車の軌跡を眺めながら、弟に対して「僕らがしっかり生きることがお母さんがこの世に生きた証になるんや。しっかりやろな」と言って手を握りあったことを今でも鮮明に覚えています。

それからいろんなことが有ったけど、いま、兄弟それぞれ何とか一所懸命にやっております。