本日の埼玉新聞に毎週火曜日連載、戸田中央医科グループ創設者中村隆俊の半生【第8話】が掲載されました。

許可をいただきまして紹介させてもらいます。

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埼玉新聞2017年9月19日17面

朝雲流れて金色に照り
戸田中央医科グループ創設者中村隆俊の半生【第8話】

深く地域に関わり尽力
昨年、名誉市民第1号に

戸田町は日本の高度経済成長に乗り人口が急増し、1966 (昭和41)年、5万人を超えて戸田市となった。東京都のベッドタウンとなり、それ以降も人口は勢い良く増えていく。

戸田中央病院も市の発展に合わせるように総合病院へ。何度もベッド数を増床するなどして規模を拡大し、市民の医療ニーズに対応してきた。戸田中央医科グループ(TMG)となった現在、埼玉県を中心とした28の病院と6箇所の老人保健施設などを展開するまでに成長を遂げた。

隆俊はこの間、警察や消防関連、ロータリークラブなどでも深く地域に関わり、尽力。その積み重ねは昨年、戸田市名誉市民第1号と言いう形で帰ってきた。

隆俊にはロータリークラブに関して忘れられない思い出がある。北大医学部に入学し、札幌で生活を始めた44 (昭和19)年頃のことだ。北桧山の実家では、戦時下の統制で本業の穀物取引ができなくなり、父末吉と母ヨシノのは従業員を養うため下駄の製造をしていた。

そんな中村家に、ボロを着た見知らぬ青年2人が訪れた。「働かせてほしい」。

「戦争によって朝鮮から強制的に連れてこられ、夕張炭鉱で働かされている人がいると言う話を聞いていたので、ピンと感ずるものがあった」と、末吉は自身の回想録「北海に燃える」に書いている。

2人は夕張炭鉱からの朝鮮人逃亡者だった。戦時下のことで、警察や特攻警察の追求は予想されたが、父母は「夜更けまで話し合い、家族同様に扱って、一緒に生活しよう」と言う結論に足した。隆俊は、父母のこういうところに北海道人らしいおおらかな気概を感じる。

父母は2人に千秋と三郎と言う日本名を与え、町長や警察署長の「見て見ぬふり」にも助けられ、2人を無事終戦まで保護した。終戦の翌年の46 (昭和21)年、2人は帰国。一家は函館港で青函連絡船に乗る2人を見送った。2人は母の肩に手を置いてむせび泣き、父母も泣いた。

それから約30年後、隆俊は戸田ロータリークラブの国際奉仕委員長として74 (昭和49)年4月、韓国の水原ロータリークラブと姉妹提携を結んだ。前年8月に金大中事件があり日韓関係は良くはなかったが、ロータリー仲間の「近くて遠い国と提携したい」という思いが結実した。

隆俊にとっては、かつて家族で守った朝鮮人青年への友情を織り込み、民族や国境の壁を超えた父母の深いヒューマニズムを受け継いだ提携だった。2青年との再会を願った母ヨシノは56 (昭和31)年2月、53歳で他界し、父末吉も81 (昭和56)年2月、82歳で没した。2人とも残念ながら2青年との再会はかなわなかった。(敬称略)

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写真=戸田市の名誉市民第1号に選ばれた中村会長(左)と神保国男市長=昨年10月、戸田市文化会館

=火曜日に掲載=