戸田中央医科グループ創設者中村隆俊の半生【第6話】です。許可を頂戴し紹介させていただきます。

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埼玉新聞2017年9月5日17面

朝雲流れて金色に照り
戸田中央医科グループ創設者中村隆俊の半生【第6話】

3姉妹と父が結束
診療に邁進

中村3兄弟の初めての城、板橋中央医院がスタートした。若い3人だったので、まさに寝食を忘れ、一生懸命に働いた。当時の板橋区小豆沢は高度経済成長時代の日本の象徴みたいなところで、田舎から東京に出てきた人たちも多く、人口が急増していた。

医院は小豆沢にあったが、戸田橋を渡った埼玉の戸田方面からも往診の依頼がよくあった。往診は隆俊の役割だった。深夜の往診も頻繁で、バイクの後に看護師さんを乗せて田んぼの中を走った。冬の夜などは防寒のために新聞紙を腹に巻いて出かけた。

多忙な日々の中、兄哲夫が結婚したこともあり、隆俊も身を固めたいと思うようになっていた。当時紹介してくれる人がいて、広島に本社を置く中国新聞東京支社長の立花義孝の一人娘、悦子との縁談が持ち上がった。

隆俊は一目で気に入った。悦子の器量が良くて品のあるところが気に入り、悦子も隆俊の凛としていながらも会話が弾むところが気に入ったようだ。縁談はトントン拍子に進み、1957 (昭和32)年11月10日に丸の内の東京会館で結婚式をあげた。

ただ、結婚はしたものの、医院は「月月火水木金金」で休みがなく、夜は10時過ぎまで診療するというようなハードワークだった。新居は妻の両親が住む中野に近い東中野のアパートだったが、隆俊の帰宅時間があまりに遅いので両親が心配し、敷地内に家を建ててもらい住むことになった。それほど診療に明け暮れた毎日だった。兄弟3人、必死で働いた。

「愛し愛される」理念のもと、まさに日夜、寝食を忘れ3人が3本の矢になって診療にまい進。その結果、地域から信頼され、受診される患者が多くなり、病院が手狭になってきた。

そこで、58 (昭和33)年11月に鉄筋コンクリートの4階建新館を新築し、病床も40床まで増やし、名称も板橋中央病院とした。診療科目も、従来の内科、外科、整形外科のほかに小児科、産婦人科、耳鼻咽喉科、眼科を加え、総合病院化していった。

59 (昭和34)年8月には、父末吉が故郷の瀬棚を引き払って、3人の病院の経営を手伝うことになった。それまで兄弟3人は診療に専念していたのだが、病院が順調に拡大していく中で、経営という観点も必要になってきた。そこで、雑穀商として北海道で一番といわれた父の経営力を生かすことにしたのである。

末吉は病院事務長として、中村商店で培った経営手腕を遺憾なく発揮してくれた。おかげでそれ以降、兄弟3人は気兼ねなく診療に専念できたのである。

(敬称略)

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(写真)=妻悦子と結婚した隆俊。悦子は当時珍しかったウェディングドレスを身にまとった= 1957年

火曜日に掲載