戸田中央医科グループ創設者 中村隆俊の半生【第4話】が、8月29日の埼玉新聞21面に掲載されました。

「愛し愛される病院」の原点になった出来事が書かれております。


金色に照り
戸田中央医科グループ創設者中村隆俊の半生【第5話】

新病院開院も 母は逝った
医療の難しさ実感

1952(昭和27)年、山梨県の済生会大月病院に内科医の欠員があり、隆俊は地域医療のための医師の使命と考えて赴任する。その後、そこに外科医の欠員も出て、兄の哲夫にも来てもらい、また兄弟で医療に携わることになった。

内科医として、患者の不安を取り除くことを主眼とした医療を提供していたことが地域の患者に受け入れられた。また哲夫が死の宣告を受けた患者を外科手術で助けたことがマスコミに取り上げられ、評判になったことなどもあり、大月病院の患者数は増え、地域医療について2人の自信にもなっていった。

そんな体験を通じ、哲夫、隆俊は、おとうと秀夫を加えた3人で自分たちの病院を作ろうという気持ちを強めていく。

そのころ、故郷瀬棚町に住んでいた母ヨシノが肺がんに罹患しているのが判明する。東京医大病院に入院し、当時の最先端の医療を受けたが、残念ながら帰らぬ人となってしまった。56(昭和31)年2月8日のことだった。まさに薬石効なく他界してしまった母。息子たちはずっと、母が長年咳き込んでいるのを心配していた。

亡くなる1年ほど前、母が初めて上京した時レントゲンを撮ると、小さな影が見つかった。外科医だった哲夫がリンパ節の一部を切り取り、隆俊が顕微鏡をのぞくと、リンパ節にがんが食い込んでいることが鮮明に見えた。

しかし、がんが進行していたため、手術はできず、放射線治療を行うことに。母親を亡くした悲しみとともに、医療の難しさを感じた。

そんな母の療養中の55 (昭和30)年、一方では病院開設の話が持ち上がっていた。板橋区小豆沢に250坪の土地と倉庫付きの物件が出たのである。以前から兄弟3人で病院を持ちたいと話し合っていて、適地を探していた。母の恩に報いるためにも自分たちの病院を作ってそこに入院させたいと願っていたので、話はとんとん拍子に進んだ。

56 (昭和31)年3月1日、板橋中央医院が開院。だが新病院の開院を待たずに、母逝ってしまったのだ。

院長は哲夫で、隆俊は副院長だった。秀夫は夜間の責任者。新医院は24時間フル稼働で診療に当たった。診療時間は一応定めたが「病気は待ってくれない」を合言葉に医療に邁進。昼間はもちろん往診も受けていた。「愛し愛される病院」の原点である。

(敬称略)

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(写真)板橋中央病院が会員。院長の兄哲夫(前列左)と副院長の隆俊(前列右)=1956年、東京都板橋区小豆沢

火曜日に掲載