戸田中央医科グループ創設者 中村隆俊の半生【第4話】が、8月22日の埼玉新聞17面に掲載されました。

中村隆俊さんが、美空ひばりさんの家庭教師をされることになった経緯が紹介されています。


許可をいただき掲載させていただきます。


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朝雲流れて金色に照り
戸田中央医科グループ創設者中村隆俊の半生【第4話】


いざ夢の都へ ひばりの先生になる
大成功の裏に努力


隆俊は1950 (昭和25)年3月、北海道大学医学部を卒業し、4月から東京医科大学でインターンとして臨床を学び始めることになった。


東京に行くといっても、当時、札幌から東京までは恐ろしく遠い旅程だった。函館まで7時間、青函連絡船が4時間、東北本線が13時間、全行程は24時間で、ほぼ一昼夜かかった。


3月、北海道北桧山は雪。長靴を履いて上野に降りたら、憧れの花の都東京は春。誰一人長靴を履いておらず、隆俊は恥ずかしさのあまり、急いで長靴をズボンで隠した記憶がある。弟秀夫の迎えを待つ上野公園、西郷隆盛像の前で「西郷隆盛は草履、俺は長靴で東京に来た。よし俺も東京でがんばるぞ!」と西郷隆盛像を眺めて誓った。


下宿先は、兄哲夫の下宿先の近くにした。インターン先も、兄の勧めもあり兄が勤務する東京医大にした。指導教授は内科医局の東光平教授。料理教室の大高裕一教授、所康夫教授。実験記録の取り方等を始めとして研究については評価してもらった。特に所教授は公私ともにお世話になった研究熱心な立派な教授だった。


私生活では時間を見つけては病院の仲間たちが、東京見物に引っ張り回してくれた。皆、気の置けない仲間たちで、東京の生活が楽しくて仕方がなかった。そのため、1年の予定だった隆俊のインターン生活はあっという間に過ぎ、ずるずると東京に居残ってしまうことになる。


そんな時、兄哲夫から、レコードデビューしたばかりの美空ひばりの家庭教師の依頼があるという話を聞かされた。美空ひばりは、まだ駆け出しで地方巡業が多く学校に行けなかったので、女性の家庭教師をつけたがうまくいかなかった。そこで男性の家庭教師に代えてみようということになり、知り合いの病院長を通じて哲夫のところに話が舞い込んだ、というわけだ。


病院の勤務が忙しいので、3兄弟で分担してひばりの家庭教師をすることになった。巡業先にも付いていくのだが、哲夫が甲信越、隆俊が関西、秀夫が東北と担当をブロック分けして、ひばりが中学を卒業するまでサポートした。


美空ひばりの国語力は、お世辞ではなく抜群だと、隆俊は感じた。仕事で歌詞の意味を考えたり、台本を読み込んだりすることで力がついたのではないかと思っている。


何より美空ひばりは頑張り屋だった。自分の課題ができないと涙を流して悔しがる。あの頑張りが不世出の天才を生んだのだ。あれほどの大成功の裏には、抜群の才能ばかりではなく人知れず努力したことがあったのだと隆俊は思っている。


(敬称略) =火曜日に掲載


2017-08-22-17-17-00
(隆俊は当時中学生の美空ひばり<左>の家庭教師を務めていた=1951年)