戸田中央医科グループ創設者 中村隆俊の半生【第3話】が、8月15日の埼玉新聞13面に掲載されました。

許可をいただき紹介します。

中村隆俊会長は、戸田市の乳がん検診率を埼玉県トップレベルに引き上げたピンクリボン運動への協賛など、戸田市の医療環境の向上に大きくご支援くださっています。

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埼玉新聞2017年8月15日13面

朝雲流れて金色に照り
戸田中央医科グループ創設者
中村隆俊の半生【第3話】

終戦の年 北大医学部へ進学
地元貢献に強い思い

1941 (昭和16)年4月、中村隆俊は函館市立中学に入学することになった。すでに兄の哲夫が同校に通っていて、姉の俊子も函館町立女学校で学んでいたから、自分も函館に行くことにしたのだ。

当時、瀬棚町から函館に行くのは大変だった。1日2往復しかない瀬棚線の北桧山駅から函館本線の国縫駅まで2時間かけて行き、そこから函館まで5時間かけて上るのだった(現在は瀬棚線は廃止され、替わりにバスが運行されている)。

函館では、親戚の家に姉の俊子、兄の哲夫の3人で寄宿した。姉の俊子は、弟2人の面倒をよく見てくれた。懐かしい思い出だ。しかし楽しい生活は長くは続かない。同年12月には太平洋戦争が勃発。隆俊たちにも戦争の影響が出てきた。北海道の学校にも学徒動員が行われたとの話を耳にしたりした。

43 (昭和18)年、長兄哲夫は東京医科大学に合格し、東京での生活が始まったが、戦争が激しくなり、瀬棚町に疎開してきた。兄から、東京が一面焼け野原だという惨状を聞き、道内への進学を勧められた隆俊は、北海道大学医学部を目指すことに。少しハードルが高い気がしたが、哲夫の励ましもあり、思い切って受験することにした。そして、45 (昭和20)年4月、めでたく現役で同大医学部に入学することができたのである。

北大医学部に入学したものの、同年8月に終戦になり、物資の欠乏は著しかった。参考書はもとより、教科書もなかったと言ってよいほど欠乏していた。授業といえば教授が話すことをひたすらノートに書き写すだけだった。石炭が不足していて暖房がとれないので、万年筆のインクが凍りノートが取れないなど、難儀をした。

大学では基礎、病理、臨床と学ぶことが多く、あっという間の3年だった。4年生に進学し、いよいよインターン先を決めなければならない時期になった。

その頃、兄の哲夫は東京医科大学を卒業し同大に勤務。弟の秀夫も同大に入学し学んでいた。2人とも東京に来いと言うし、自分自身もまだ内地に行ったことがなく、東京は憧れの地でもあった。

一方、医学部の親友(現入間川病院・風間進理事長)は、道内の炭鉱の病院に行くと言っていた。当時石炭は花形産業で、頼もしく見えたものだった。隆俊は一旦、東京に出るにしても1年で戻るつもりでいた。当時は、生まれ育った北海道の医療で貢献したいとの思いが強かったのである。

(敬称略)

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火曜日に掲載