司馬遼太郎が考えたこと(5)毎晩、本を読んでから寝るようにしている。

先日、「司馬遼太郎が考えたこと第5巻」を読んでいたところ、思わず「なるほど!」と読後に膝を打ったくだりがあった。

それは「武士と言葉」という章である。

...「坂本竜馬は、どの土地に行っても土佐弁で押しとおした」と、当時、彼の性買うの一端を語る逸話として、かれの故郷で語り継がれた。もともと土佐方言というのは、発音が明快だからどの土地でも用が足りたということもあるだろうが、一面、彼が方言で押し通したということがそれほど話題性に富んだ事柄だとすれば、共通語(標準語)が厳然として存在したということになる。その共通語が、左様シカラバ、ゴザル、である。当時、武士が他藩の士と話すとき、たがいに方言でやられてはかなわないので、この室町以来の共通語が用いられた。

司馬遼太郎氏は、日本に標準語ができあがったのは明治以降ではなく、小笠原式という武家礼法が作られた室町時代であると推察されている。戦国時代末期、諸国を放浪していた明智光秀が織田信長に重用されたのも光秀だけが室町礼法を身につけていたからであり、それは今日、英語ができない外交官は考えられないのと同じであると、彼は続ける。そして、江戸時代、江戸には各大名が参勤交代の制で集まったが、江戸城に登営するときに用いられたのがこの室町礼法だったそうだ。そして、その礼法が格式言葉が、国々でも大名の御殿を中心に広まり下層にまで及んだ結果、その言葉により国々の方言に修正が加えられ、そのため、一国大藩のあった城下の方言は江戸中心の共通語に転化しやすい性質のものになっている、そう司馬遼太郎氏は分析されている。

ところで、大阪・京都であるが、この「上方(かみがた)」と呼ばれた地域のほとんどは天領(幕府直轄領)で侍はほとんどいなかったため、京・大坂は室町礼法の中でも公家礼式から進化した言語圏になってしまったらしい。京の人は御所言葉をまね、大坂(大阪)の人はその京言葉をまね損ねて船場言葉をつくりあげたとのことである。

日本語の標準語の流れはもともと京で発生しながら武家と公家という2つの流れになり、関西圏に生まれた者に一生関西なまりが抜けないのはこれはこれなりに原標準語だという意識がはらの底にあるからだと、司馬さんは結論づけておられる。

私自身、関西なまりが抜けない。両親もそうであり、親戚一同みなそうだ(私の父方は代々京都であり、母方は伊勢である)。また、小中高を過ごした福岡県福岡市の福岡側は黒田藩52万石の大藩だったが、那珂川を挟んで対岸にある博多地域は天領であって、福岡地域よりも独特な「博多弁」を使っている。福岡側は今日博多弁も使うが、やはり激しい博多弁は博多側であった。そして、福岡自身は、関西文化に目をむけず東京志向の街になっている。

今まで巡ってきた街の記憶の中でなんとなく感じていた違和感の理由が、この司馬遼太郎氏の章を読んだときに氷解した!